「努力が報われなかった」 「心から信頼できる人が少ない」 「自分の性格を好きになれない」 「生まれてきた意味が分からない」 日々、私の中でうずまく絶望たち。 腹が立つので「全て真正面から向き合ってやろう」 と思いました。 これは『私が生きるための絶望哲学』。 どこかに正解があったとしても、ここには、私が生きることを諦めないために 考えたことを綴ります。 その過程で、 誰かを救えるようなことが あるとすれば、とても嬉しく思います。

時間にルーズな人を許せないのは、私の心が狭いせい?

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遅刻が大嫌いな私。

どんなに仲の良い友人であっても、
遅刻をされ続けると一旦距離を取ります。

このことを他人に話すと、
「厳しすぎない?」と言われることもしばしば。

そこで、今回は「時間にルーズな人を許せないのは、私の心が狭いせい?」という題でブログ書いてみることにします。

人間関係において、「誠実さ」を何より大切にしている

「遅刻は不誠実さの表れか」
という議論は今回はナシで

私は、人間関係において、
「誠実さ」をかなり重要視しています。

「思いやりを持って接する」
「嘘をつかない」

これらと同じくらい、
「時間を守る」というのは、
誠実さが表れるところだと思うんです。

逆に、そこに「誠実さ」が感じられない付き合いは、今までの熱が嘘のように一気に冷めます。

だって、そんなんならいらないもん。

とはいっても…

その人のことを、
完全に嫌いになったりはしません。

「私とは完全に違う種類の生きものだな」と一線を引いた上で、それ以上その人のことを嫌いにならないために自分から縁を切るんです。

「人のことを好きでありたい」という思いが強い

お察しのとおり私は性善説信者なので、みんなでちゃんと話をすれば、きっとこの世から悪はなくなると思っています。

ただ、そのせいか、
幾度となく人に騙されてきました。

人が好き、というよりも、
どうか好きでいさせてほしい。

心から好きでありたいからこそ、「遅刻」という「人の誠実な気持ちを踏みにじるような悪の所業」を何食わぬ顔でやってのける、その無神経さが許せないんです。

「愛の反対は無関心」って、よく言うじゃないですか。
それと、おんなじなんだと思います。

「この人になら裏切られてもいいや」と思える人を探している

私の場合は、
たぶん、こういうことなんでしょう。

たとえ、そう思える人が何も言わずに私の元を去ったとしても、「捨てられた」なんて思うことはありません。

きっと、愛の到達点は「祈り」です。

そんな人と出会って、「あわよくば」一生の付き合いができることを求めているんだろうな、私は。

なんて、思いました。

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