「努力が報われなかった」 「心から信頼できる人が少ない」 「自分の性格を好きになれない」 「生まれてきた意味が分からない」 日々、私の中でうずまく絶望たち。 腹が立つので「全て真正面から向き合ってやろう」 と思いました。 これは『私が生きるための絶望哲学』。 どこかに正解があったとしても、ここには、私が生きることを諦めないために 考えたことを綴ります。 その過程で、 誰かを救えるようなことが あるとすれば、とても嬉しく思います。

自分を大切にする方法が最近やっと分かった

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私のための絶望哲学 哲学

「自分を大切にしなさい」
最近は、そう言われる風潮があるのかな、と思います。

ただ、私は、人間が社会を営む生き物である以上、「自分を大切にして生きる」なんて、無理な話だと長らく思っていました。

私が自分を大切にして生きることで、良くも悪くも人に影響が出てしまうとするならば、私は「自分を捨てる選択を取る」、そういう人でありたかったからです。

事実として、昔の私はそういうやり方で自分を保ちながら生きてきました。

「自分を大切にしなきゃ」と思ったきっかけ

「この生き方じゃだめなんだ」と自覚したのは学生時代。
夢を自分から諦めてしまったあの春の頃。

今までなんとかして保てていた心が壊れてしまったことを、はっきりと認識しました。

今思えば、そのあたりから私は「人生のステージごとに人格が分離している」という意識を持ち始めたような気がします。

「幼少期の私の人生」と「青年期の私の人生」は完全には繋がっておらず、それぞれの時間軸を生きる私が、それぞれ別の人格を持つ存在として成り立っていると言えば伝わるでしょうか。

不思議なもので、昔の自分を思うと、「私があの子を幸せにしてあげなきゃ」という意識に陥るのです。

果たして「今の私の幸せが昔の時間軸を生きている私を救うことに直結するのか」は、はっきりと分からないところではあるのですが、あの春、初めて自分の生き方に対する疑問が沸いたとき、きっと私は「自分軸で生きていく」という方向に向かい始めたのだと思います。

私がたどり着いた「自分を大切にする方法」

さて、それでは今、私が「自分を大切にするため」に具体的にどういう方法をとっているのかということについて話していきたいと思います。

結論から言うと、関わらないことを選べるようになりました。
こう言うとネガティブに受け取られてしまうような気がするので「好きなものだけに触れるようにした」という風に表現を変えましょうか。

目を塞いでいてもいろんな情報が流れ込んでくる、耳を塞いでいてもいろんな音が聞こえてくるこの世界で、目や耳を塞ぐことを諦めないようにしました。

特に、人間関係に対する考え方を変えることは、それまでの私にとっては、とても大きな方向転換でした。

ただ、完全に追い詰められていたという当時の状況が功を奏して、その選択肢を選ぶことができたのです。

能力の高さではなく、生き方が尊敬できる人。
知識の豊富さよりも、行動が美しい人。
私のことをまっすぐ見てくれる人とだけ、まっすぐ向き合えばいい。

そういう風に、意識を変えました。
実際、この生き方に変えてから随分と生きやすくなったように思います。

もちろん、自ら終わらせてしまう関係の数も増えましたが、それでも不思議と以前に比べると格段に心が軽くなりました。
外の事象に神経をすり減らしながら、浅い呼吸をするような時間が減ったからでしょう。
そうして、初めてどれだけ自分で自分の首を絞めていたかを自覚しました。

広い世界を見ることも厭わないけれども、ただ美しくないものに吞まれそうになったときには、ひとりでも立ち止まって深呼吸ができるような強さを持ちたい。

そうして、これからもあたたかい世界の中で生きていきたいと思っています。
きっとこれが、「私が私を大切にする」ということです。

まっすぐに生きてきたひとは、いつか愛される。
まっすぐに誰かを求めたひとは、いつかまっすぐに求められる。

いつか、どこかで見かけたこの言葉を、今も信じています。

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