さて、「人は誰しもがペルソナを被って生きている」という言葉があります。
ペルソナ:心理学で使われる「人間の外的側面(仮面)」を表す言葉
簡単に言えば、「外向き用の人格」です。上司、家族、恋人、友達…どのコミュニティにおいても統一された姿を見せられる人がいるなら、ぜひとも会ってみたい。私は時間単位でペルソナを変えています。
今日は、
そんな「ペルソナ」についてのお話です。
「女の子らしい女の子」が嫌い
唐突ですが、私は上記の通り「女の子らしい女の子」が心の底から嫌いです。
自分でも薄々「理不尽だなあ」と思っていたので、この気持ちの根源について一度ちゃんと向き合っておこうと思いました。
一応断っておきますが、ここで言う「女の子らしい女の子」とは、誰か特定の人を指しているわけではありません。私の中にある概念としての「女の子らしさ」、つまり1から10まで私の偏見で話をしています。
さて、私が嫌う「女の子らしい女の子」とは、「体が華奢で可愛らしくて、なんだか守りたくなる子」のことです。そんな「女の子らしい女の子」を嫌う理由こそが、冒頭で話した「ペルソナ」の話に繋がります。
幼い頃に形成されたペルソナ
私のことを知っている人なら、私のことを「女の子らしい女の子」とは決して思わないはず。「女の子らしくない女の子」が、私のペルソナだからです。
とはいえ、私も幼い頃はれっきとした女の子でした。将来の夢は、ディ○ニープリンセスだったくらいです。
ただ、男兄弟の真ん中っ子として生まれたせいか、はたまた当時の習い事のせいか。小学校中学年くらいまで男子と張り合う活発さと運動能力を誇っていた私は、歳を重ねるにつれて、見事に「男女(男のような女)」としてのアイデンティティを確立させ(させられ)、それに応えるようにより一層心も体も逞しく成長しました。
24歳になった今まで引き継がれている私のペルソナは、きっとこのあたりから形成され始めたのだと思います。
ただ少しややこしいのが、まだ子どもの頃の時点では「女の子らしくいたい」という願望があったところ。
皆みたいにピンク色のふわふわのミニスカートを履きたかったけれど、白くてほっそりとしたみんなの足とは違う、傷だらけで筋肉質な自分の足が酷く醜く見えて、いつの間にかズボンしか履かなくなりました。日焼け止めを塗れば「女子かよ」と言われ、化粧をしてみれば「らしくないね」と笑われたこともあったか。
小さな葛藤と諦め、容認の積み重ね。
そうして、いつの間にか完全に「女の子らしいことができない女の子」になってしまったのでした。それからは、「どうせ似合わないし」「こんなの私らしくないから」といって、きちんと化粧をしたり、リボンやハートがついた服や下着を身に着けたりといった「世間一般的に言われる女の子要素」まで、徹底的に避けて通るようになりました。
ただ嫉妬していただけなのかも
そして今、改めて私が「体が華奢で可愛らしくて、なんだか守りたくなる子」を嫌う理由を考えてみると、おそらくただの嫉妬なのです。そもそもこの偶像も、元を辿れば完全なる嫉妬から出来上がったものなのです。
華奢になれないから華奢な子が嫌い。
可愛くないから可愛い子が嫌い。
守ってもらわなくても平気になってしまったから、誰かに守られている子を見ると、「ずるい」なんて思ってしまうのです。
私は自分で作り上げたペルソナに縛られ、身動きが取れなくなっていただけ。
ペルソナを否定するということは、つまり、今までの自分を疑うことになるからです。
ペルソナと本当の人格との摩擦
これに気付いてからというもの、
私はここ3か月の間、
本当の私が何を求めているのかをはかるために、「女の子らしいことをちょっとだけ受け入れてみる」ということをひっそりと試していました。
手始めにネイルを。
まつ毛を伸ばすために毎日美容液を塗ってみる。
たまには化粧をちゃんとしてみる。
右耳には花型のピアスをつけて、
スマホケースはキラキラのものに変えました。
やっぱりそうで、可愛いものを身に着けると気分が高まるのを確かに感じました。そして、「女の子らしい女の子になりたい」と思う私は誰よりも女の子らしいのではないか、とも思い始めました。なんて話です。
さて、みなさんもペルソナをいくつか持っていることでしょうが、気を付けておかないと、ペルソナは知らない間に人格に侵食してきます。
定期的に立ち止まって、「本当の自分は何を求めているのか」「縛られなくても良いものに縛られていないか」ということを考えた方が良いかもしれません。
強くても弱くても、
可愛くても可愛くなくてもいい。
ペルソナは所詮仮面、一貫性を保っていなくても、「違う」と思ったら破壊しても大丈夫。
間違っても、そんなことで自分が自分じゃなくなるなんてことはないですからね。