「努力が報われなかった」 「心から信頼できる人が少ない」 「自分の性格を好きになれない」 「生まれてきた意味が分からない」 日々、私の中でうずまく絶望たち。 腹が立つので「全て真正面から向き合ってやろう」 と思いました。 これは『私が生きるための絶望哲学』。 どこかに正解があったとしても、ここには、私が生きることを諦めないために 考えたことを綴ります。 その過程で、 誰かを救えるようなことが あるとすれば、とても嬉しく思います。

完璧主義思考によって失ってしまうもの

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日々、生きづらいです。
原因が分かるまでに、20年ほどかかりました。

大人になって直面した完璧主義思考の弊害

幼少期から、気が強い子でした。

とにかく、なんでも一番でないと気が済まないのです。運動に勉強、芸術はもちろん、文字の美しさや遊び(泥団子や折り鶴)の精巧さまで。

大人に近づくにつれ、少しずつ身の程を知ることになるのですが、そのせいで今度は変な方向に完璧主義思考が飛び火してしまいます。

「新しいノートに書いた文字の一画目が気に入らないから」と、何十枚もページごと破り捨てたり、「納得のいく絵が描けなかったから」といって美術の課題を提出しなかったり。

人生の行く先を左右する大学受験のときですら、「なかなか気に入る解答が書けなかった」という理由で解答時間が足りなくなり、そのせいでA判定落ちしたくらいですから、確かに相当酷いものでした。

ちょうど、このあたりからです。

私の持つ特性は、「こだわりが強い」だの、「自分に厳しい」だの、そういうふんわりとした表現では済まされるものではないということを、ようやく薄らと自覚しはじめたのは。

初めての就職先は、
広告代理店のクリエイティブ部。

「何を、誰に、どういう言葉を使って伝えるか」
コピーライターという職業は、私にとってまさに天職だと思っていました。

言葉が好き。
考えることが好き。

そうして紡いだ言葉で、
人の背中を押してあげたい。

もともと日本語教師を目指していた人間だったこともあって、言葉に向き合っている時が一番心が躍るのです。

「もっと美しく表現できるはず」
「もっと上手く伝えられるはず」
「もっとこだわれるはず」

心の底からこの仕事が好きで、楽しかった。
そして、それがたまらなく嬉しくて、毎日狂ったように筆を走らせていました。

「アーティストじゃないんだから」

その言葉を受け取ったとき、体の温度が一気に上がったことを覚えています。

今となっては、その言葉の本質が理解できるようになりましたが、当時の未熟な私には、一時再起不能になってしまうくらいには鋭く響いた言葉でした。

そこで初めて、「完璧主義はよくないこと」だと、はっきりと認識したのです。

完璧主義思考の裏にあるものはなにか

完璧主義思考の裏にあるものはなにかと考えてみると、私の場合、それは「思い描いている理想への強い執着心」でした。

みんなに褒められる私。
私の功績によって喜ぶ家族の姿。
私の言葉で世界が動く未来。

それらの大掛かりな理想に、知らず知らずのうちに執着していたのです。
「楽しいから」「褒められると嬉しいから」という感情で誤魔化して、本当に大切にするべき事柄や、見抜くべき本質、数ある他の選択肢を見過ごしていたのです。

そこから、私は理想への執着心をなくすために様々なことを試しました。

一筆描きで絵を描いてみる。
あえて何も調べずに出かけてみる。
平日に朝まで遊んでみる。
泣きたい時は思いっきり泣いてみる。
会いたい人に会いたいと言ってみる。

確固たる理想よりも、その瞬間に生まれた事象や感情を優先することにしました。

そうしていくうちに、
世界の解像度と彩度が上がっていることに気がつくのです。

決して思い違いではなく、
確かにその頃から五感が鋭くなりました。

「美しさとは、つまり合理的であるということだ」と唱える人がいます。

昔の私なら同じことを言ったでしょう。

今となっては、
全く逆の意見なのですから驚きます。

私は、絶え間なく変わり続ける世界の中で、
偶発的に生まれた事象、
感情こそが美しいと唱えたい。

理想を持つなとは言いません。

理想に執着するがあまり、
本当に大切にするべきものを見過ごしてしまわないように。

教訓として、どうか役に立ててください。

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