幼い頃から、その気があったような気がします。
「一画目がどうしても気に入らない」と言ってノートを破り捨てたり、「納得のいく絵が描けなかったの」と言って美術の課題を提出しなかったり。人前に出て何かを発表するときには、一言一句漏らさずに書いた原稿を用意して。
人生の行く先を左右する大学受験のときですらそうでした。
気持ちの良い文章が書けるまで推敲していたら、いつの間にか試験終了。
結果、A判定落ちです。笑えるでしょう。どうか笑ってください。
ちょうど、このあたりからです。
私の持つ特性は、「こだわりが強い」だの、「自分に厳しい」だの、そんな表現では済まされるものではないということを、ようやく自覚しはじめたのは。
初めての就職先は、
広告代理店のクリエイティブ部。
「誰に、何を、どういう言葉を使って伝えるか」
コピーライターという職業は、私にとってまさに天職でした。
言葉が好き。
考えることが好き。
そうして紡いだ言葉で、
人の背中を押してあげることができたら。
もともと日本語教師を目指していた人間だったこともあって、言葉に向き合っている時が一番心が躍るのです。
心の底からこの仕事が好きで、楽しかった。
そして、それがたまらなく嬉しくて、毎日狂ったように筆を走らせていました。
「アーティストじゃないんだから」
その言葉を受け取ったとき、体の温度が一気に上がったことを覚えています。
今になってようやく、その言葉の本質が理解できるようになりましたが、当時の未熟な私には、一時再起不能になってしまうくらいには鋭く響いた言葉でした。
そこで初めて、「完璧主義はどうやら良くないことらしい」と、はっきりと認識したのです。
完璧主義の裏にある「存在価値を否定されることへの恐怖心」
あなたは何か物事を新しく始めるとき、どんな感情が湧きますか?
成功への期待?
失敗への不安?
私の場合は、それらを通り越して「存在価値を否定されることへの恐怖心」が先駆けてきます。
私の理想通り、つまり完璧な状態で事が運べば、少なくとも他者に存在価値を否定されることはないはずだ。逆に、不完全な状態で事が運んでしまえば、「お前には存在価値はないよ」と言われてしまうかもしれない。
そんなことを本気で思っていた私は、そういうわけで、不完全な状態で人前に出ることが恐ろしくてたまらないのでした。
思い返してみれば確かにそうで、ずっと何かに怯えて続けていたような気がするのです。
脱・完璧主義計画
一筆描きで絵を描いて壁に飾る。
今日はあえて何も調べずに出かけてみよう。
あ、別に平日に朝まで遊んでみてもいいし、二日連続で外食だってしてもいいんだ。
LINEの返信なんてすぐにしなくたって別に嫌われないし、
間違えること、一発で正解を出せないことは決して悪じゃない。
完璧じゃなくたっても大丈夫。
きっと、私の存在は私が認めてあげればそれでいい。
それから私は、この歪みきった完璧主義思考を解くために、「理想や完璧」よりも「その瞬間、偶発的に生まれたもの」を優先して生きてみるように意識を変えました。
そうしていくうちに、
世界の解像度と彩度が上がっていることに気がつくのです。
決して思い違いではなく、
確かにその頃から五感が鋭くなりました。
「美しさとは、つまり合理的であるということだ」と唱える人がいます。
昔の私なら同じことを言ったでしょう。
今となっては、
全く逆の意見なのですから驚きます。
私は、絶え間なく変わり続ける世界の中で、
偶発的に生まれた事象、
感情こそが美しいと唱えたい。
理想に執着するな、否定に怯えるな、とは言いません。
ただ、本当に大切にするべきものを見過ごしてしまわないように。
完璧主義思考によって人生を助けられ、人生を壊された人間の教訓として、どうか役に立ててください。
私ももう少しだけ、頑張りますから。