「博物館に行くのが好き」と言うと、なんとなく変な空気になるのはなんでなんでしょうか。なにやら難しい顔をしながら、後ろで腕を組んでゆっくり歩く姿でも想像しているんでしょう。
私が博物館に行くのが好きになった理由は、元を辿るとおそらく高校の日本史の授業。とくに稲作文化が伝わり農耕社会が形成された「弥生時代」が好きで、今でも稲を刈り取る際に使われていた石包丁や、その年の豊作を祈るお祭りのための銅製の金属器などを見ると、「これ資料集でみたやつ~」と感情が昂るのを感じます。
ただ、最近は博物館へ行く目的が変わりました。
以前は、「日本そのものの歴史をなぞる楽しさ」というよりも、「日本史の授業を振り返りながら自分の学生時代をなぞる楽しさ」のために博物館へ足を運んでいたわけですが、ここ最近では「自分の背筋をのばすこと」が目的になったのです。
小さな道具ひとつにしても、じっくりと解説を読んでみると当時を生きていた人の苦悩や遊び心がありありと目の前に浮かんできます。今日見たものの中で印象に残ったのものは、今でいう漏斗の元になったであろう道具。当時はお米を別の容器に移し替えるための道具として使われていたもので、解説には「詰まりを防ぐために緻密に網目を調整することが必要でした」みたいなことが書かれていたと思います。詰まりが起こるたびに、悪態でもつきながらちまちま網目の大きさを調整していた昔の人の様子が思い浮かんでちょっと笑えました。また、昔の知恵が現在もきちんと機能しているという事実に関心しました。
こうして昔と今の繋がりを意識すると、自然と背筋が伸びるような気がします。
展示物を眺めている私に向かう想いや視線を感じることがあるからです。
それらを感じると、自然と「昔の人の想いや経験を無駄にしないように私がきちんと生き抜かなきゃ」という感情が湧いてきます。オカルトチックな話にはしたくないのであまり深くまで突っ込まないでほしいのですが、そういう類のものを受け取る瞬間が確かにあります。
これは一種の脅迫観念のようなものですが、私にとってはそれがとても心地よく作用するのです。
こうして先の時代に受け継がれた文化もあれば、技術革新や外部からの影響によってすっかり形を変えてしまったもの、すっかり消えていってしまった文化も数多くあります。
もしかしたら、これから先に生きる人たちが今の私たちが残した歴史を振り返った時に「こうすれば簡単に解決するのに」とか、「くだらん文化(笑)」なんて思うこともあるかもしれません。ただ、今を一生懸命生きることでこうして後世に何かが伝わる可能性があるのなら、私は今抱えている悩みや思いをまるごと「歴史や文化」として受け入れた上で、きちんと向き合っていこうという気持ちになるのです。そういう意味では、このブログを書いている意義もそこに着地します。
ちなみに、私は過去世で弥生時代に生きていた人物なんだろうなと思います。当時の石器などになんとなく懐かしさを感じることと、お米が異常なくらい好きだからです。具のないおにぎりが大好物(塩もなし)で、定食なんかは先におかずや汁物、漬物まで食べあげてからお米に手をつけます。割と小食な方ですが、お米なら一食で3合はいけます。パンも好きですが、米粉パンが一番好きですね。