「努力が報われなかった」 「心から信頼できる人が少ない」 「自分の性格を好きになれない」 「生まれてきた意味が分からない」 日々、私の中でうずまく絶望たち。 腹が立つので「全て真正面から向き合ってやろう」 と思いました。 これは『私が生きるための絶望哲学』。 どこかに正解があったとしても、ここには、私が生きることを諦めないために 考えたことを綴ります。 その過程で、 誰かを救えるようなことが あるとすれば、とても嬉しく思います。

「認識の齟齬」って、どうしようもなくない?

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この季節にしては過ごしやすい3連休でした。

「なんとなく外の風にあたりたい気分だから」と、食べ放題のあとでパンパンに張ったおなかを抱えながら川沿いをふらふらと散歩していた19時。人通りの多さに少し違和感を覚えながら顎を上げて目を細めれば、何やら遠くの方が普段よりも明るい気がします。

近付いてみると、そこは、何やらジャズのイベントで賑わっているようでした。

私も彼も人よりは音楽が好きな方ではあるけれども、特別ジャズに興味があるかと言われればそういうわけでもなく。「まあ折角だし聞いていこうか」と、火照った芝生に腰を下ろして周りの人に合わせて手を叩いてみたり、頭を揺らしてみたりなんかをしていました。

「ベースがいいね、かっこいいなあ」と私が言うと、彼はきょとんとした顔をして「ベースってどの音?」と不思議そうな顔。彼はそれよりも、高らかに跳ねるようなピアノの音に耳を奪われていたみたい。「自分もあんな風にピアノを弾いてみたい」と言って、私の横で目をキラキラさせていました。

そこにある音は同じはずなのに、ふたり聞こえているものはまるで違うようです。

「無意識下で情報が取捨選択されている」

これが聴覚だけに限る話ではなく、外部情報を受け取るすべての器官に共通する傾向として認められているのだとしたら、今一度きちんと頭に入れておかないといけないなと思いました。

そう思うと、人間同士で認識のすれ違いが起こるのは当然のことであって、他人、ともすれば自分のことすらもますます信用できなくなってくる。

あの日のジャズイベントは、そういうことを考えるひとつのきっかけになりました。

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