田舎に帰省していた時に、「そういえば」と思いました。
私、今全然イヤホン使ってないな。
都会に移り住んで約半年。
いつからか、イヤホンが手放せない生活になっていました。
普段は徒歩1分の距離にあるコンビニに行く時でさえ、イヤホンをするくらいです。
それが、ただ「音楽が好きだから」というシンプルな理由によって生まれた特性ではないということに今回の帰省のおかげで気が付いたので、ここに記念として残しておきます。
私がイヤホンを常備している理由
結論から言うと、
私は、意図的に聴覚を働かせないためにイヤホンを常備しています。
人間由来で発生する音は耳を通り抜けていかない
すれ違う人たち、駅の前の電光掲示板、救急車、パトカー、デモ隊、怪しげな求人トラック…
都会で生活していると、特別耳をすませなくとも、様々な方角から様々な意図が入り混じったあらゆる音たちが絶え間なく耳に飛び込んできます。
対して、田舎は単純明快。
聞こえてくる音といえば、動物の鳴き声か風が木の葉を揺らす音くらいです。

イノシシの鳴き声はほぼ豚、鹿は高い声で「キュン!」と鳴きます。蛙の声は「ケロケロ」じゃない。
イタチやタヌキの目撃は日常茶飯事、アナグマみたいなのも庭で見たことがあります。
小学校の裏山にはサルが住んでおり、よく誰かしらが襲われていましたね。
救急車はともかく、
パトカーのサイレン音など、
あの街で暮らしているうちに聞いた覚えなんてほとんどありません。
都会と田舎の持つ音の大きな違いは、
音の種類や数ではなく、「その音が人間由来のものかどうか」
そして、まさにここが私にとって第一に重要になる要素なのかなと思います。
では、なぜ私は人間由来の音を遮断する必要があるのか。それは、私の持つ面倒臭い思考癖に原因があります。
パトカーの音を例に挙げてみましょう。
街でパトカーの音を聞くと、
まず「もう、また誰かが悪いことをしてるんだな」と思います。
それから、
→「なんでそんな悪いことをするんだろう」
→「いや、その人にもいろいろ事情があるんだろう」
→「もしかしたら私はとんでもなく性格が悪いのかもしれない」
→「そもそも人間とは…」
→「人間嫌い…」
という風に、次第に悪い方へと思考が流れていくのです。
この例は特に極端ですが、
私の場合、物音ひとつで唐突に頭の中で哲学対話が始まってしまいます。
この性質を持った人間が、
絶え間なく別の音が発生する街で暮らすとどうなるか。
そうです、一瞬で処理落ちします。
加えて、私はとにかく考え続ける力が求められる職業に就いています。
そして挙句の果てに趣味はこれ。
風邪でもないのに、
私がよく熱を出すのはそういうわけです。



くるしい
だから、せめて外界からの影響だけでも防ごうと、意図的に聴覚を鈍くするためにイヤホンをするのです。
これは聴覚に限らず、視覚も嗅覚も同じ。
ひとりで外を歩くときは、人間由来のものをなるべく感じ取らないように、あえて感覚が鈍くなるように意識しています。
最近、たまたま私が街を歩いているところを目撃したらしい昔からの友人に、「すごい険しい顔で歩いてたけど…」と言われました。
「恥ずかしいからそんなソワソワしないで!」「急に黙らないで!」
人と一緒に外に出掛けると、大抵こういうことを言われます。
ただね、それで一番困っているのはどう考えても私ですね。だって、好きな人と一緒に居るときくらいは、すべてを全身全霊で感じておきたいもの。
となると、感覚を遮断するわけにはいきません。
そうすると、見えるものがすべて見える。聞こえるものがすべて聞こえる。
必然的にキョロキョロそわそわしてしまうわけです。
普通の人なら、それらの情報を無意識に選別できているのかもしれませんが、私には、まだそれをする力が備わっていません。
加えて、私は情報を取り込んでしまったが最後、自分の中にある価値観や美学と照らし合わせながら咀嚼して飲み込み、自分の血肉にしないと気が済まないという厄介な性格をしています。
キョロキョロした後に突然黙り込むのはそのためです。
一生懸命、この街に適応しようとしている最中なのです。慣れるまで、もう少し時間はかかるかもしれません。
でもきっといつか、
この街で、イヤホンを外せる日が来るのかな。
先に言った「処理落ち」という言葉に関連して、
私の特性をよく知ってくれている上司から、「外部デバイスみたいな人が傍にいるといいかもね」みたいなことを言われたことがあります。
そう言われると、
私は人の話をきちんと聞いてくれて、一緒に悩んで答えを出してくれる人に懐いてきた傾向があるので、本能的にそういう人を求めていたんだな…と思いました。
自分が2人いればいいのに…
でもそれもきっと面倒臭いな。