「努力が報われなかった」 「心から信頼できる人が少ない」 「自分の性格を好きになれない」 「生まれてきた意味が分からない」 日々、私の中でうずまく絶望たち。 腹が立つので「全て真正面から向き合ってやろう」 と思いました。 これは『私が生きるための絶望哲学』。 どこかに正解があったとしても、ここには、私が生きることを諦めないために 考えたことを綴ります。 その過程で、 誰かを救えるようなことが あるとすれば、とても嬉しく思います。

「先輩!変わります!」のくだりの正解を考えたい

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人の性質を表す名詞や形容詞には様々なものがありますが、
持って生まれたものでも、後天的に纏ったものでもなくて、
私はそれを、意志だと思います。

今日は、特に「優しさ」について書こうかなあ。
ふと思うことがありました。

目次

人に優しさを向けられたとき

人から優しさを向けられたとき、どう感じますか?
また、どうしていますか?

ちょっとだけ申し訳なく感じる?
素直に「ありがとう」と受け取る?

私はね、怖くなります。
理由は先に述べた通り、「優しさ」は「意思」だと思うからです。

これがどういうことかというと、優しい人は、優しい性質を持っているのではなく、「特別あなたに優しくしたいから」優しくしてくれているということです。

私が特別?いやいやそんなはず。と、思う人もいるかもしれません。

ただ、本当の意味で誰にでも優しい人が存在するとするならば、それは「優しい人だと思われたい」という打算的思考、もしくは「特別優しくしたいと思う人がいない」という状況のもとに発現した性質であって、その前提を踏まえた上で「それは本当にあなたの思う『優しい性質を持った人』ですか?」と問われれば、答えは自ずと「いいえ」に傾くことでしょう。

繰り返しになりますが、
優しい人は、あなたに優しくしたいと思っているから優しいのです。

もし、今「優しい人」と聞いて頭に思い浮かぶ人がいたら、ひとまず心から感謝して、大切にした方がよろしいかと思います。

受け取る優しさは選んだほうがよい

では、なぜ私は「優しくしたい」という意思を向けられることが怖いのか。

補足:まだ信頼していない人の優しさ

それは、「優しさの意思を受け入れること=その人の全ての意思を受け入れること」だと思っているからです。

人の気持ちには明確な尺度が存在しません。
それゆえに、本来温かいものであるはずの「人を想う気持ち」が、ある地点を起点として、途端に「すれ違いの原因」になってしまう場面をたくさん目にしてきました。

それを思うと、「人の意思」は、どんなに些細なものであったとしても、本当に慎重に大切に扱うべきで、だからこそ半端な気持ちで受け取るなんてことは許されないのです。

「全ての意思」と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、私はそれくらいの規模感と覚悟を持って、日々「受け入れる意思の選別」を行っています。

そういうわけで、私は「人の優しさ」が怖いのですが、ここまで徹底して拒否し続けるというのも、人としてどうなのか。

そんなことを思い続けて数年。
私は、「優しくされる可能性を先回りして潰しておく」という対処法を身に着けました。

たとえば、ご飯に行く約束をしたとき。
私は奢られることが大の苦手なので、ご飯に行く約束をした時点で「お願いだから奢らないでください」と頭を下げてお願いすることが多いです。そうすれば、私が「変な人」のレッテルを貼られるだけで、相手の気遣いを真っ向から踏みにじることなく、覚悟ができていない状態で相手の意思を受け入れなくても済むわけです。

単純に申し訳ないし

今回の事の発端(というか本編)

部活中「先輩!変わります!」のくだりの正解を考えたい

「先輩、荷物持ちます!」
「いやいや!いいよ!笑」
「いや!持ちます!」
「ほんとに大丈夫!笑」

何千万回繰り返したでしょうか、この生産性のないくだり。この出来事を思い出すうちに、「自分に向けられた優しさの受け入れ方」について再考しようと思い立ち、今こうしてパソコンを開いたわけです。

実は、本題はこっち。

果たして、あの状況下で私はどうするのが正解だったのか。

少し考えてみたのですが、
今、駆け寄ってきてくれた後輩に返答するとしたら、

ありがとう!じゃあ半分持ってもらおうかな笑

かなあ、と思います。

負担も想いも、「ありがとう」と言って半分こすればいい。

まるごと受け入れなくても、きっとよくて。
「私の想いを理解してくれた」ということが大事なんです。

そう考えたら、私が実践していた「人に意思を向けられないための対処法」は、なんて独りよがりのものだったんだろうと、少し反省しなければならないような気がしてきました。

なんとも難しいですね。

ところで、冒頭の「私はそれを、意志だと思う」という文章。これは、近代の文豪を代表する太宰治の言葉を捩ったものです。

人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に
びるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。

さて、

とりあえず、恋愛云々はともかく、自分が唯物論者と唯心論者のどちらかを考えておいてみてください。

これについてはまた、近々話しましょう。

沼にハマると頭がこんがらがるので、
とりあえず簡単に置いときます。

解説

唯物論:存在の根源は「物質」-「ある」から「あると思う」
唯心論:存在の根源は「精神」-「あると思う」から「ある」

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